原発事故に関連して今後の放射性物質による汚染対策について再考しなければなりません。
チェルノブイリ原子力発電所事故について書かれた「ナターシャ チェルノブイリの歌姫」(手島悠介著)を読みましたが、子どもたちに広がる被害の大きさ深さを再認識することができました。チェルノブイリ原発から100km以上も離れたキエフの子どもたちはがんや重度な障がいに苦しんでいる事実、因果関係の立証という以前に、この現実に向き合う必要があります。次世代を担う子どもたちに対してはあらゆる手段を講じて、放射能の被曝から守る必要があります。「直ちに健康に影響は出ない」との説明は放射能の危険のほんの一部しか表現していないことを改めて問う必要があります。
福島原子力発電所事故への対応で文部科学省が定めた「年間被曝(ひばく)線量20ミリシーベルト以下」の校庭利用基準は大問題です。感受性の高い子どもたちに対しては被曝のリスクを最小限に留めなければなりません。また、放射線量の測定も絶対でない(測定ポイントの設定や雨などの気象条件でも放射線量はまちまちなはず)以上、安全サイドにたった基準の設定がどうしても必要となります。この基準の見直しを含めて、子どもを守るための措置の徹底を訴えてゆきます。
3月14日提出の私の緊急提案書では次のように記しています。
「最悪の事態を想定して、避難区域にまだ残された住民の避難を最優先で進める。子どもに関わる学校、幼稚園、保育園などの施設については、20km圏外であっても閉鎖を含め、被曝の契機にならないよう配慮すべき。」
「ナターシャ チェルノブイリの歌姫」(手島悠介著)にチェルノブイリ原子力発電所事故処理の指導にあたったヴァレリ・レガノフ博士(事故からちょうど2年後に自殺されています)の次のような言葉が載っています。
「あの当時、わたしは原発の危険性について、知っていたとはいえなかった。ばくぜんとした不安はもっていたのだが、多くの大家・巨人・その分野の経験者がいたのでよもやのことが起こるはずもないと考えていた」
「ガガーリンの宇宙飛行までは高い道徳の感覚が、いたるところで見られた。他人に対する態度の中に、人間に対する態度の中に、自分の義務に対する態度の中に、そして、科学技術に対する態度の中に、美しい文学の精神が見られた。
科学技術は、わたしたちのうちなる道徳を表現するためのひとつの手段にすぎなかった。それから長い間、わたしたちは道徳のはたす役割を、わたしたちの文化を、歴史を、無視してきたのではないか」
今一度、原点に立ち戻って、われわれの生きる意味とわたしたちが生み出す科学技術の意義について考えなければなりません。
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